本能を目覚めさせる建築空間を求めて
チヌ(黒鯛)の当りはへらぶなに似て繊細だ。
それまで波にまかせて自由に漂っている長い棒浮木の頭が一瞬、僅かだが確かに違う動きをする。
食い上げの場合もあれば、ほんの数ミリ頭を押えるだけのこともある。
何れにしても熟練のチヌ釣氏はまず合わせない。
それは単なる前当りであり、合わせてもチヌとのやり取りの開始には至らないことを 数多くの失敗の経験から、知っているからだ。
逆に餌取り(魚に対し失礼な呼び方ではあるが)、例えばカワハギの場合は前当り=本当りであり、困ったことに浮木の動きはチヌと同じようにごくごく小さい。
チヌの前当りと思ってじっとしていると、餌だけ取られ、ついにはボウズ。
帰路には鮮魚店で土産の魚を買うという、釣人にとっては屈辱の釣行パターンになることも多い。 チヌが釣れなきゃボウズで結構、というプライド高きチヌ釣氏も存在するが、家で
待つ家族の顔を思い浮かべるとそうもいかない釣氏の方が、私も含めて多いのではないだろうか。
しかしこの世には稀にそのごく小さい当りの違いを見極め、チヌが当ればチヌを、餌取りが当れば餌取りを、確実に釣り上げる名人がいるのも事実である。
私も父から大学生時にチヌ釣りを教わり、お盆、正月関係無くほぼ毎週、海へ通う釣り人生を始めてしまったが、チヌの他、真鯛、キス、鰤、何を狙っても父にかなわなかった。
当然ながら視力や聴力、運動能力は若い私の方が優れている。集中力や根気も勝っていただろう。 キャリアの差だけが理由であろうか、父はタバコを吸っていても、酒を飲んでいても、ひとたび当りがあれば、的確なタイミングで合わせるのである。
釣りは自然との対話だ、海に浮かぶだけで十分だといいながら、やはり人よりたくさん釣りたい。
大きい魚を釣りあげた時の震えをまた味わいたい。
悔しい思いを何度味わったことだろう。
今は父も他界し、一緒に釣行することは叶わないが、釣りが上手い、下手とは何が違うのであろうか。
釣りだけではない。
例えば神社や寺院の境内でエサを求めて近づく鳩を素手で捕まえる。猫と遊ぶ。蝿をたたく。 何れも相手の次の動きを予測し、相手の予想できない動きで行動しなければどの目的も達成できない。 父はこれらも確実に私より上手かったし、私は私の子供より多分上手い。
まわりの家庭をみてもやはり年寄りほど何がしか技を持っている。
昔と現代の生活環境や習慣の違いが、その差を生み出す大きな理由だろうが、それに伴う狩猟本能の欠如が現在人ほど広く蔓延しているのではないだろうか。
狩猟だけではない。食欲。性欲。睡眠欲。排泄欲。etc。
人間が本来持っていただろう本能は、現代の便利で快適な日常生活ではその存在の必要性は少なくなり、確実に退化しつつある。
ベルトコンベアが定時に餌を運ぶ鶏小屋に並ぶ鶏と、現代の人間に一体どれだけの差があるのだろうか。
私は養鶏場の鶏にはなりたくない。
横のゲージもその隣のゲージも同じ。よく見たら対面のゲージも同じ。
違うのは表札だけ。同じ時間に目が覚め、餌を食べ、排泄し、寝る。
行動にも大きな差はない。
進化とは、様々な本能によって生じる多様化ではなく、理性の名のもとに管理されやすく、また管理しやすい均一化なのであろうか。
全く同じ家が何百軒も並ぶ新興住宅地、同じ住戸が上下左右に重なる集合住宅。
部屋名だけが違うだけで同じような個室が占める間取り。自慢の庭付き戸建住宅も
なんとなくどこかで見たような形。壁。窓。屋根。ただ住宅メーカーのバリエーションの範囲。
そこに本能の荒々しさは見られない。
だからいいという人も多いのだろう。
他と大きく違うと不安でしょうがない人が、今の日本では大多数なのだろう。
オーダーメイドより安心の既製品。標準の家庭。標準の一生。
社会主義国家以上に国民総中庸意識。
確かに私もその中にどっぷり浸かっている。快適で楽だ。
でも殻を破りたいといつも思っている。
本能あっての理性だ。そう、結局、釣りがもっと上手くなりたいのだ。
私の設計する建築空間は能動的でありたいと思う。
建築からの仕掛けが人々に与えるものは小さくないと、まだ信じている。
いたずらが成功した時の、してやったりという喜びの表情を自分もしたいし、施主からも見たいと思う。
現代の子供には見られない、昔の子供の遊ぶときに見せるあの表情を、大人も含めみんなに取り戻してほしい。
本能を目覚めさせる空間とはどういうものか、まだ具体化はしていない。
昔にもどれ、というのは解ではない。
しかし必ず現代でもみんなを生き生きさせる空間があるはずである。
海は広くて大きい。でも釣氏は魚が餌を食べる場所、そして時間はごく限られていることを知っている。
海は小さいのだ。
私は建築設計を通じてそれを追い求めたい。相変わらず、どこかで釣りをしながら。